湯川秀樹のノーベル賞ーその光と影

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日本人で最初にノーベル賞を受けたのは湯川秀樹だ。この人は京都帝国大学理学部卒で大阪帝国大学修士で博士だ。何故、阪大に移ったのかは不明ながら当時は大阪経済は繁栄しており大阪帝国大学も民間からの多額の寄付があったと言われている。それが目当てだったのかも知れない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の原子爆弾開発

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仁科研究室の全員がニ号研究に参加したわけではない。宇宙線と理論の担当者は不参加だった。朝永振一郎が協力を申し出たが、仁科は必要ないと言って断った

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1944年2月13日、海軍大佐高松宮宣仁親王昭和天皇弟宮)以下、迫水久常(内閣参事官)、仁科存(東北大)、湯川秀樹(京大)、菊池正士(技研)、中野秀五郎(東大)、仁科芳雄(理研)、西谷啓治(京大)、水島三一郎(東大)、仁田勇(阪大)、渋沢敬三(日銀副総裁)、水間一郎(技研)、深川修吉(日本無電)が集まり会合を開催[31]。 1945年7月21日、琵琶湖ホテルで京大と海軍の第一回合同会議が開かれた。出席者は京大から荒勝文策、湯川秀樹、小林稔、佐々木申二、海軍から北川敬三少佐、三井再男大佐、東京計器顧問の新田重治であった。そしてこれが最初で最後の会議となった。荒勝は戦後になってから「あんな会合やったってしょうがないですわ。だけどやらないとかっこうがつかない」と述べている。荒勝は終戦後もF研究と関係なく回転体の研究をしばらく続けた。F研究以前から関心のあるテーマだったからである。1949 – 1950年頃、直径0.3ミリメートル、高さ1.5センチメートルくらいのクギ状の鉄の棒を真空中で毎分 1,716,000回転させることに成功した。遠心力は 4,930,000Gであった[2]

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ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、前記の通り戦後ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた[42][31]。関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している[43]

ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている[25]

引用終わり

湯川秀樹氏の残念な点は戦争中、日本の核爆弾開発計画に参加しながら戦後は原子力の平和利用や原水爆廃止運動に関わった点だ。ところで現在、福島第1原発は依然として核反応をおこしている。この核反応の深刻化を防ぐために莫大な国費が費やされている。日本国内の原子力発電所の多くは停止している。ところが日本の電気は足りている。例えば今年の夏、一回も節電要請がなされなかった。

1つの理由は太陽光発電が普及したことだ。この発電方式は日本の電力のピークとなる夏のさかりに最も発電する。これにより日本の電力のピークが無くなった。もちろん化石燃料を燃やしてるのはあるだろう。化石燃料と天然ガスは二酸化炭素を出すのを無視すれば完璧なエネルギーで発電にぴったりだ。

湯川秀樹氏が原子力の平和利用に関わった。それはそれ自体は尊いことかも知れないが今の時代にあわないのだ。

藤原章生「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」という書籍から引用する。

p62 湯川博士は「研究に専念したいから辞めたい」と言っているわけだ。

博士の原子力委員辞任について調べた佐藤文隆・京大名誉教授(77)はこの時の答弁についてこう話している。佐藤氏は京大湯川研の出身で、森さんの後輩だ。

「子供の言い訳みたいに、重大な研究があるなんて言ってますよ。だけど議員の方も何もそれ以上追求しないでうやむやになってるけどね。その年、56年夏に、アメリカのシアトルで理論物理国際会議があり、日本から物理学者が20ー30人行ってるんだけど湯川と藤岡が連名で在米の日系企業に寄付をお願いしている文書が残ってるんです。だから湯川さん、原子力委員という肩書きをうまく使ってるんだよね。以下略」

引用終わり

湯川秀樹氏は原子力の大きな未来を見ていたのかも知れない。だが増殖炉は行き詰まった。現在、電気は足りてるし原発は後処理まで考えると高い発電方式になった。要は湯川秀樹氏の考えた原子力の平和利用は何ら日本のメリットとなってない。

自分はノーベル賞に対し懐疑的であり何故、科学の一部分野である時代にとっては重要かも知れない発見をしただけで科学者が神格化されるのか理由がわからなかった。この湯川秀樹氏の場合もまさにそうだ。中間子は1940年台は目覚ましい発見だったのかも知れない。だが湯川秀樹のノーベル賞は湯川氏を優れた科学者としてだけでなく平和運動家としても広めた。自分が今、問題にしてるのは湯川秀樹氏の平和運動家の部分だ。

ノーベル賞が科学者の神格化をもたらすのも奇妙な話で自分はこのような賞の必要性がわからない。ここで言えるのは神格化は明らかに不要な部分であり湯川秀樹氏の信じた原子力の平和利用がもたらしたのは今も福島で汚染を続ける原発だった。お寒い話だ。

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