ノーベル賞の暗い顔

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日本人で最初にノーベル賞を受けたのは湯川秀樹だ。湯川は京都帝国大学理学部卒で大阪帝国大学から修士と博士を受けた。ここまでは問題ない。問題は何故ノーベル賞は京大の所属になってるのかである。湯川は中間子という概念でノーベル賞を受けたのであり決して京都観光大使として鴨川遊びの素晴らしさを説いたからではない。湯川の中間子論文は22ある。そのうち21に大阪帝国大学理学博士 湯川秀樹と署名されている。自分は画像で確認した。京大がネットで論文を公開していたからだ。

ここではノーベル賞が何故、京大に所属すると日本では考えられてるのかを考えよう。日本には原爆開発を専業とする組織が2つあった。1つは東大の仁科博士が率いた。もう1つは京大の湯川博士が率いた。この軍からの委嘱が何時、始まったかは不明だが湯川は阪大から京大に移り原発開発に勤しんだ。この原発開発はアメリカが先行し広島そして長崎と原爆が落とされ戦争は敗戦となった。湯川秀樹は新聞社から広島に落とされた新型爆弾に関するコメントを求められたが断っている。

1945年8月15日、戦争は終わった。奇妙なことに湯川秀樹は平和運動家として活動を始めた。この人が日本の原爆開発の組織の長だったのではないのか?岡山と鳥取県境の人形峠でウランは見つかったが原爆にするには足りず開発できなかったのではないのか?この人は事情が事情ならアメリカあるいは中国に原爆を落としコメントを出す側では無かったのか?

「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」藤原章生

この本の最初の部分でそうした経緯が書かれている。p33引用

京都のホテルで水田泰次君に会う。」同君がS20年5月西村教授(冶金)によばれて「特殊爆弾でヒロシマ危険」といわれ家族(広島)を疎開させた経緯をきく。そのとき「湯川さんが黙って座っていた」ときいて複雑な気持ち。考えこんでしまう 森氏の日記から引用

この本の主張が正しければ湯川秀樹は広島への原爆投下を事前にしっており幾人かには広島からの退去を勧めたようだ。ところが大学の湯川ゼミの学生である森には告げなかった。それが上の書籍のテーマである。

湯川秀樹は日本軍から原爆開発計画を任されていたので広島の被爆を知っていてもおかしくはない。その自分の知識をある人には告げ別の人には告げなかった。これも自分は不審には思えない。

湯川秀樹は原子力平和利用の先駆者だった。反原水爆運動の指導者だった。自分はここで日本の「良心的反対運動」のまともさを疑う。考えてみるが良い、湯川秀樹は日本の原爆開発のリーダーだったのだ。もう一人、仁科博士もいるが湯川もリーダーだった。状況によってはアメリカに原爆を落としたかも知れないひとが戦後は原子力の平和利用運動の指導者となったのだ。しかも戦争中、自分が何をしていたかを黙ったまま。

ここで湯川秀樹の日本人最初のノーベル賞に戻るのだが彼の受賞の裏には実は日本政府がいたと考えられる。「悪いことをやらせた」という思いがあったのか京大に移り原爆開発計画の指導者になったことを労う目的で京都が取り上げられた。そこで出てくるのが鴨川である。もし湯川のノーベル賞の裏で工作したのが日本政府なら理解できる。

湯川秀樹は中間子の研究と論文でノーベル賞を受けたのだから当然、受賞した組織は大阪帝国大学であるという論理が通らない国の事情があったことが推測される。

ところで何故、原爆は広島に落とされたのか?この部分もあまり説明されなかった。自分は広島の近くに住んでおり何度か行き気が付いたのだが広島は日本軍の工場だらけだったのだ。今でも当時の名残がある。何故、広島に軍需産業が集中したのか?日本軍の研究開発だから当然ながら住民がその性格を理解している必要があった。広島は毛利の領地だった。関ヶ原の戦いで西軍の名目上の指揮官だった毛利は徳川に責任を問われ広島の領地を奪われた。毛利に与えられたのは長州と萩だけだった。この長州藩が明治維新を率いた。明治政府は広島は毛利の旧領土だから住民を信頼していたのではないかと思える。

日本という国は複雑な事情で動いている。

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