引用
1945年7月29日、宇部市に模擬原爆が落とされ、18人が死亡した。全国に投下された模擬原爆や空襲の実態について、元徳山高専教授、工藤洋三さん(72)=周南市須々万奥=が米軍の史料分析を始めて約30年になる。毎年のように訪米し、米国立公文書館で軍の写真や記録を掘り起こしてきた。戦災の体験者が減るなか、次世代への継承にも乗り出している。
原爆の投下訓練として実施され、「パンプキン」と呼ばれた模擬原爆は、長崎原爆と同じ形、重さのファットマン型に火薬が詰められた。45年7月20日から8月14日までに18都府県で49発が投下されて400人以上が死亡した。県内では宇部に3発投下された。
引用終わり
私の自宅から歩いて50メートルの近場に碑文があるのを発見した。そこには長崎への原爆投下の前に山口県宇部市にも「原爆」が投下されていたというものだ。当時、日本の主要なエネルギーは石炭で宇部市は石炭を産出していた。当然ながら米軍から狙われる理由がある。しかし自分はこの宇部への「原爆投下」を知らなかった。関係資料がすベて米国に持ち去られてしまったらしい。
自分は日本軍が原爆を研究していた事実すら知らなかった。1つの研究チームは東大の仁科博士によるものだ。もう1つは京大の湯川博士によるものだ。アメリカでは日本軍が朝鮮沖合で核実験を行ったと報道されている。湯川秀樹氏は日本初のノーベル賞受賞と平和活動により知られている。
日本の原爆はアメリカに投下されなかった。これに関して昭和天皇が非人道的と反対したと言われている。少なくとも旧日本軍はアメリカ人の命の重さも日本人の重さも同じだった。他方でアメリカによる2発の原爆投下とその後の情報操作はひどいものがある。アメリカは日本人の命の重さはアメリカ人より軽いとした。つまり人種差別的だった。
自分はアメリカが保有している情報の公開を強く求めるものだ。
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