侵食される日本

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1980年に朝日新聞に入った私は出版局に入り浸りするようになった。ここにはアフリカ音楽仲間がいた。「マヌの新作が」とか「フェラ・クティの新作が」と言って普通に返事が来た。信じられないような場所だった。出版局には同期のS氏がいた。彼は国際キリスト教大学を卒業し国会図書館に勤務した。1980年に朝日に入った。彼は阪大も受けていた。しかも合格していた。朝日に仲間がいないことに寂しさを感じていた私は彼と仲良くなった。

ある日、出版局で世間話をしていると彼が1冊の本を取り出した。「普通の生活」と言う題の景山民夫の最初の本だった。彼はこの本を自分にくれた。彼の出版局での最初の作品だった。この本が素晴らしかった。自分は電話をかけ「素晴らしい本だった」と感想を言った。

1998年の事だった。自分は10年近く前に朝日を辞めいたが新聞の社会面で「景山民夫、自殺」とあった。自分は驚いた。この人を高く評価していたからだ。自分は久しぶりに朝日新聞に電話をかけた。何故、自殺したのか理由を知りたかったからだ。電話に出た彼は口篭った。何か事情がありそうだった。

引用

平成10年)1月26日深夜に、成城の自宅書斎で喫煙しながら趣味であるプラモデル制作をしていたところ、接着剤から気化したシンナーに引火し、27日午前1時半頃に死去。50歳没。死因に関しては当初は火傷、もしくは一酸化炭素中毒と報じられたが公式には特定されておらず、検視も行われたが公表されていない。高校の同級生かつ放送作家仲間でもあった高平哲郎は、病院で医師に「火傷の方はそんなに重度ではないんですが、一酸化炭素を吸っていますんで難しいところですが、まだ蘇生の手当は続けています」と告げられた。また、息を引き取った後「民夫は顔だけを出して、身体は白いシーツに包まれていた。」「髪はシャワーを浴びてきたような濡れ方をしていたが、多少すすをつけた顔に火傷はなかった。」と述べている[19]

出棺の際、妻は大好きだった『トラブル・バスター』の田所局長の言葉を引用します、と前置きの後「バカヤロー! 寂しいじゃねーか!」と早すぎる死を悼んだ。葬儀は幸福の科学が執り仕切った(葬儀委員長は小室直樹)。

死去の時点で収録済みの番組もあり、長年審査員を務めた『料理の鉄人』では、彼を追悼するテロップが流された。また、同日放送された朝日放送探偵!ナイトスクープ』でも登場する場面があったため、収録日時を表示して放送していた。

前述の通り検死内容が公表されなかったことや、死亡時の不自然な状況[注釈 4]もあり、その突然の死には様々な憶測が飛び交うこととなった。人気番組を数多く手がけた放送作家かつタレントとしても知られていたが、幸福の科学に入信した晩年の状況もあり、没後その足跡が取り挙げられることはほとんどない。

著書

小説・エッセイ

1984年

引用終わり

彼は幸福の科学に入信した。葬儀もこの団体が行った。不審な死かも知れない。葬儀委員長は小室直樹だった。この人は京都大学理学部卒だ。湯川秀樹を崇拝していた。

ここで自分はロックフェラーが日本文化に及ぼした影響について考えるのだ。まず朝日新聞出版局同期の卒業した大学はロックフェラー系と言われる。彼の編集者としての最初の作品の著者が新興宗教の「影響」で自殺する。景山民夫氏は直木賞も受けており文壇でも知られていた。

自分は幸福の科学が嫌いだ。2019年の最初の選挙に幸福の科学信者がいた。この人は自分より上だったがほとんど得票がなかった。嫌がらせで出馬したことが疑われた。幸福の科学と「アメリカ」のつながりは不明だが大本教や踊る宗教のように世界政府志向だと思われる。

引用

宮永東山窯から荒川豊蔵鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。1930年(昭和5年)秦秀雄と出会う、意気投合し秦秀雄を星岡茶寮の支配人へ取り立てる。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放された。同茶寮は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、空襲により焼失した。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ山口淑子の夫妻を星岡窯に一時寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソマルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退した。

引用終わり

自分は漫画「美味しんぼ」が好きだった。山岡の父、海原雄山のモデルは北大路魯山人だったと言われる。魯山人を見出したのはロックフェラーだった。「美味しんぼ」の原作者は元電通だ。ここにも奇妙なつながりがある。

いやいや、それだけではない。何とロックフェラー財団は日本の文学者をアメリカに招待してたのだ。

引用

大岡昇平、阿川弘之、小島信夫。有吉佐和子

戦後日本の言説空間にアメリカはいかに働きかけ、どのように解釈されたか。一面的な見方を脱し、相互作用を鮮明に描く。

本書では、文化冷戦の事例としてロックフェラー財団のアメリカへの留学支援を取り上げ、創作フェローシップの招きを受けてアメリカに渡った文学者が、どのような影響を受けたかを検証する。

引用終わり

ロックフェラーは山口県ともつながりが深い。例えば香月泰夫だ。この長門出身の画家の美術館が長門市にある。そこで作品を見ていた私は稲妻に打たれたように驚いた。ある作品の解説に「香月の作品を気に入ったロックフェラーの招きで」と言う文章があったからだ。

自分は金子みすずもロックフェラーの支援を受けたのではないかと疑った。こちらは検索で出なかった。金子みすずと言えば東北大震災の時のACジャパンのCMを思い出す。ACジャパンというのは元は公共広告機構と言った。電通の子会社だ。ここで非常事態用の広告を作る。良い価格で提供されるが使用回数に制限がある。広告料金は朝日新聞などの媒体が出す。

日本の文壇と広告はロックフェラーだらけだと思う。これが植民地の植民地たる所以だろう。

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